宇津本 直紀

CATALYSTドラマー・作詞作曲家・音楽プロデューサー・音楽コーチ

作詞作曲家・音楽プロデューサー。90年代DEENのドラマーとして活動、「未来のために」「夢であるように」等の楽曲を作曲。2000年代、大手レコード会社に勤務。2011年より、東京スクールオブミュージック専門学校渋谷などで講師を務めつつ、神部冬馬のプロデュース、上野優華への楽曲提供など。

ドラマー・作詞作曲家・音楽プロデューサー・音楽コーチ:https://twitter.com/uzumotonaoki

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今回のカタリストは音楽プロデューサーの宇津本直紀さんです。90年代にロックバンドDEENに在籍、ドラマーとして活躍され、数々のヒット曲を生み出されてきた宇津本さん。現在は従来まで取り組んでこられた作詞・作曲・プロデュースに加え、ボーカルコーチとしてミュージシャンを育成することにも尽力されており、2019年には改めてドラマーとして復帰をされる宇津本さんの出会いと変化の物語をお伺いしました。


 

 

―本日はインタビューをお受け頂きありがとうございます。宇津本さんの物語を現在・過去、そして未来への想いへとお伺いしていきたいと思いますが、まずは現在宇津本さんはどのような活動をされているのでしょうか?

 

現在は専門学校を含め10カ所くらいの所で教えています。講師の仕事と並行して、音楽プロデュース・制作は変わらずずっと続けています。プロデュースの方は仕事に波があるので、すごく忙しいこともあれば、落ち着いている時もあるのですが、仕事自体は途切れずにずっと続いています。特にここ1か月はとても忙しく、来年の春に公開される予定の映画の主題歌・挿入歌プロデュースを現在制作しています。それが今一番取り組んでいることです。

 

―音楽プロデュースという仕事を理解できていないのですが、どのようなお仕事なのでしょうか?

 

一番肝になるのは、原盤制作という仕事です。マスタリングデータと呼ばれるもの、このままリリース出来ますよという状態になるまで音楽を仕上げていく仕事です。そのために必要なスタッフを集めることや、必要であれば自分で作詞作曲もしますし、そうやって色んなことを整理して制作を進行して、期日までに楽曲の原盤を仕上げることが仕事です。

 

―では今を切り取ると、映画用の曲制作に専念されているということですね。

 

そうですね。あとは教えること、僕はボーカルコーチと名乗っていますが。最近は作詞作曲やプロデュースの仕事とコーチの仕事の比率が時期によって変わる感じです。直近だと半分はボーカルコーチで、あとの半分で制作したり作詞作曲したり、誘われてライブに出かけサポートしたりしています。

 

 

―専門学校で教えられているのもボーカルなのですか?

 

専門学校で教えているのは作曲作詞です。ボーカルコーチは僕個人の活動として、広く一般の方からメジャーデビュー直前という人たちまで教えていて、もう6年くらいやっています。独立した時に始めました。始めたときは、プロだけじゃなく色んな人に楽しんでほしいという思いでカラオケ教室的なこともやっていましたが、それはそれで楽しかったですね(笑)。

 

―独立したのが6年前ということでしょうか。

 

2011年の暮れに教室を作りました。その前まではレコード会社に勤めていました。

 

―それでは、少し過去の話になってきましたので、まずは宇津本さんが音楽を始めたきっかけから教えて下さい。

 

すごく長いです(笑)ので、かいつまんでお伝えしますね。

始まりは小学校5年生の頃に鼓笛隊で太鼓をたたいたことです。

 

―アーティストさんってピアノを幼いころからやっているというイメージがあるのですが。

 

それまでは全然何もやっていませんでした。親はカラオケ好き、歌謡曲大好きで、祖父母もそうでした。でも仕事は音楽にまったく関係なく、一家で自動車整備工場を経営していました。いまは弟がその工場を継いでいます。ただ祖母が詩吟の先生をやってはいましたね。習い事で踊りもやっていたし、民謡もやっていました。

 

―宇津本さん自身は詩吟を習われてなかったのですか?

 

いや、ないですね。一日中家で詩吟は流れていましたけど、習ってはいなかったです。ただ耳にはいつも音楽は流れていましたね。親が大好きだった歌謡曲もずっと流れていましたし。あとはアニメが好きだったのでアニソンをよく聞いていました。

 

―その後、鼓笛隊からどのように繋がっていったのでしょうか。

 

中学校に入学して、吹奏楽部に入りました。その時に配属されたのも打楽器で。正直打楽器がやりたいと僕自身思っていなかったのですが、たまたま人数不足だということで打楽器に配属されました。打楽器のパートリーダーは3年生になるとドラムセットを叩くという慣習があったので、3年生の時に僕はドラムを毎日叩ける環境を手に入れました。これは大きかったですね。毎日叩ける環境っていうのはなかなかないので。そして高校でも吹奏楽部に入りました。その時にはドラムが好きになっていたので、高校にはドラムセットがなかったのですが、自分で中古のドラムセットを買って持ち込み高校でも年中叩いていました。

 

―高校生には高額な買い物ではないでしょうか?

 

多分当時10万円くらいだったと記憶していますが、祖父母に買ってもらいました。今思えば不思議ですけど、吹奏楽部の音楽室まで父が楽器の移動を手伝ってくれたり、家族はすごく協力してくれていましたね。吹奏楽の大会にも必ず来てくれたし、今思い出すとすごく応援してくれてたんだなって思います。

 

部活以外でも、「あいつドラムが叩けるらしいぜ」ということで、高校1年生の文化祭では先輩のバンドに誘われてドラマーとして出演しました。そこで初めてバンドとして演奏したんですけど、その後同級生から本格的に洋楽中心のロックバンドに誘われました。僕が洋楽に詳しくなれたのは、僕を誘ってくれた同級生の中に洋楽にとても詳しい友人がいたことがきっかけなんです。

 

―バンドを始めたということですが、吹奏楽も続けながら活動されていたのでしょうか?

 

もちろん。僕は吹奏楽のために学校に行っているようなものでしたから。学校の授業を休んでも、部活は行っていました。バンドは趣味みたいなものでした。

 

けれど、バンドやバンド仲間を通じて洋楽の洗礼を受けたのは大きな経験でした。

Led ZeppelinやDeep Purple、The Beatles等、ロックの歴史をつくったバンドの存在も、この時期にバンド仲間から「これを叩いてくれ」とテープを渡されて知りました。その意味では、ロック音楽に対しては受け身でしたね。それ以前からクラシック音楽は好きで、中学校の時には学校にクラシックのレコードがたくさんあったので、それをテープで録音して家で聞いていました。クラシックも最初は入門的なものから聴き始めて、だんだんマニアックなものになっていきました。音楽との出会いがクラシックからだったこと、そしてそれが自主的な興味から始まったことはラッキーだったと思います。きっと誰かにクラシック音楽を押し付けられていたら拒絶していたと思います。

 

―クラシックでの知識がその後の音楽生活にどこか影響を与えたりはしたのでしょうか

 

音楽の元々の成り立ちを歴史的に理解することが出来たというのは良かったと思いますね。音楽って意外と若い芸術で、流動的だったものをヨーロッパの人たちが分析し、体系立てたものなんですよ。ピアノの先祖であるチェンバロって強弱がつけられなかったとか、トランペットの出せる音が限られていたとか、昔の楽器で演奏出来る音楽には限りがありました。楽器の発達とともに演奏できる音楽の範囲が広くなったということは、楽器が音楽の可能性を決めているということ。それを理解できているというのは大きいと思います。

 

またクラシック音楽の歴史の中で、オーケストラの編成が巨大化し、そして飽和し、急速に崩壊していったという流れは理解できているつもりです。僕が思うに「芸術」としての音楽は『オワコン』(終わってしまったコンテンツ)なのではと感じることがあるんです。「芸術」としては終わっているコンテンツを現代のクリエイターは「エンターテインメント」として表現している。だから僕は音楽に芸術的な拘りはなくって、もっと自由に、リスナーに求められる形でやっていく、そしてそのことを自分の中で葛藤なく楽しめているのも、音楽の歴史に対する知識があるからこそだと思っています。

 

―そういう意味では中学・高校時代の吹奏楽をやっていた価値は大きかったのですね。

 

そうですね。最初のハイライトが、吹奏楽部が山口県で一位になったこと。音楽に対して「やればできる」と思えたのがそのときでした。「努力は報われる」っていう感じでしたね。

 

―それが音楽を職業としたいと思ったきっかけでしょうか?

 

それが不思議で。クラシックで食べていこうって思っていた時期もあり、指揮者になりたいと考えたこともありました。が、専門的な知識を身に着けるには高校生ではもう年齢的に遅いかなと思って諦めました。次に打楽器奏者も考えたんですけど、でもなんかオーケストラの奏者は性にあわないなって思ってもいました。それに打楽器も歴史的にはとても新しい楽器なので、曲によっては使われてなかったりすることもあるんですね。そうすると、出番ないじゃん!みたいな(笑)。オーケストラの打楽器って音楽的には脇役なのかなって思い始めていました。真ん中には行けないのかなって。きっともうちょっとメインに立てるものをやりたかったんですね。

作曲家にもなりたかったんですけど、前段でお話ししたようにクラシックの作曲家って今更なってもなという思いと、一方でポップスの作曲もしたくなったのですが、その時は何をどうしたらよいかはわかりませんでした。それでも作曲には興味があったので、高校3年生の頃に自己流でメロディーを作って、後輩にコードを付けさせてオリジナル曲を歌ったりしました。

 

―色々な考えがあった中で最終的にどのような決断をされたのでしょうか。

 

高校卒業した後、大学は政治経済学部に入学しました。大学在学中に、改めて自分は何をしていこうかと考えたときに、中高と音楽三昧だった私にはやっぱり音楽しかないと思い、音楽の道に進むことを決めました。それで最初の考えとしては、どうにかして音楽業界に入って、そこから作曲家への道に進むか、バンドをプロデュースできたらいいなと思っていたので、とりあえずバンドサークルに大学3年生から入部しました。当時はドラマーが不足していたので、重宝してもらえました。メインのバンドと他に3つ4つくらい掛け持ちしていました。

ところがメインで活動していたバンドのボーカルが就職活動で辞めちゃったんですよ。そこでレコード会社に就職しようと考えたのですが、当時はレコード会社って採用試験に年齢制限があって、浪人していたこともあって入れなかったんです。バンドは解散するわ、レコード会社は門前払いだわ、で散々な思いをしていたときに、何とかしなくちゃ、ということでオーディションを100くらい受けました。

 

―100個も受けられたんですか!

 

100なんてミュージシャンには普通なんですよ。ポールマッカートニーもそれぐらい受けたと聞きますし、学生にもそれくらい普通だと教えています。大手のレコード会社から地方の放送局まで、たくさんのオーディションを受けました。

 

吹奏楽でもドラムは自分から選んだわけではないし、高校でもロックドラムをそんなにやりたかったわけでもないし、大学を卒業するときにも音楽を続けるならドラマーっていう選択肢しか残されていませんでした。いつもドラマーという選択肢は最後の砦って感じですね(笑)。でも僕はドラマーという選択肢だけには希望が見えたので、大学卒業前の8月からプロドラマーの方に弟子入りすることにしました。道玄坂にあったヤマハの「菅沼孝三ドラム道場」っていう、ドラムの世界では有名な先生の教室に入門しました。

 

ドラムを教えてもらうのはもちろん、プロの世界について詳しく教えてもらいました。プロってどのくらいの技術があるのかとか、どんな生活をしているのかっていうのを知りたかったので、とても多くのことを学ぶことが出来ました。あとはすごくフレンドリーな先生だったので、ご自宅に遊びにいかせてもらったり、開演前のステージに立たせてもらったりもしましたね。先生から学んだことは、スローテンポの8ビートの方がアップテンポの曲よりも演奏が難しいということと、プロになりたかったら「プロデューサーの人に覚えてもらう人になれ」ということですね。使ってもらう立場なので。その2つの教えが印象的です。

 

そんな時に「ビーイング」っていう音楽制作会社がドラマーの募集をしていたのを見かけたんです。当時は、織田哲郎さんなど著名な方が所属していて、織田さんの作品が好きだったこともあったので、受けることに決めました。

オーディションを受けたあと、まずは「ZYYG」というバンドに入ってみないかということで声をかけてもらって、入ることになりました。でも急に突然「メンバーから降りてくれ」といわれてしまったんです。プロデューサーからいつか呼び出すからといわれて4か月。その間もデモテープを送ったり、作曲をしたりドラムの練習をしたりしていたのですが、長い4か月でした。そしてやっと電話がかかってきたのが「DEEN」というバンドのドラムが辞めてしまったのでやらないか、という話でした。それがDEENとの出会いでした。

 

―まるで部署異動のようですね。

 

そうですね(笑)。

バンドはボーカルが中心という当時の考え方があったので、良いボーカルがいればメンバーを募り会社がバンドを組み立てる感じでした。

 

―DEENさんは宇津本さんが入った時は既に有名だったのでしょうか。

 

そうですね。DEENはデビュー曲が大ヒットして既に100万枚売れている状態でした。

 

―ではそこに突如参加したということになるんですか。

 

そうです。入る前は、僕自身どのくらい売れているバンドなのかあまり知らなくて、知った時はびっくりしました。

 

―急展開ですよね。

 

そうですね。でも音楽業界ではよくあることなんですよ。幸も不幸もですけどね(笑)。

 

―そこからDEENのドラマーとして活動するようになっていったということですね。

 

6年間でしたけど、今も音楽業界にいる自分の基礎を全て作ってもらったという感じでした。ネームバリューもそうでしたし、制作のノウハウも教えてもらいました。特に作曲に関しては、ディレクターさんに生まれて初めてコード理論を教えてもらいました。それが無かったら僕は今こうして活動できていないと思うので、感謝しています。

 

―ずっと前からやられていたわけではないんですね。

 

本格的に作曲ができるようになったのはDEENに入ってからですよ。作曲はやっていたんですけど、頭の中に思い浮かんだメロディーをどのように書き表していけばよいのかがわからなかった。だからコード理論を学んでようやく体系的に楽曲をつくれるようになったというのは大きかったです。

 

―音楽活動自体も忙しくなりましたよね。

 

音楽活動と言っても今のようにライブはほとんどやっていなくて、制作ばかりやっていました。スタジオにこもりっきりでしたね。スタジオに行くのが大変なので引っ越したりするくらい、通い詰めていました。

 

今の時代とは音楽の売れ方が違って、ライブよりもCDの売り上げの方が稼げる時代だったので、制作現場を経験しながらコード理論を教えてもらい、作曲の研究を重ねていきました。

 

―当時作った楽曲で宇津本さんの思い出の曲はありますか?

 

日テレのプロ野球中継のテーマ曲に選ばれた「未来のために」という曲は、DEENのボーカリストとの共作なんですけど、巨人の長嶋監督が選んでくださったんです。あとは「夢であるように」という曲も思い出に残っています。今日中に書いてくれって夜の10時に言われたんですよ(笑)。もう今日終わるじゃんみたいな(笑)。

 

―DEENを離れることになったときはどのような心境でしたか。

 

当時は色々と不安定な心持ちでした。心が安定していなかったのかな。今だったら余裕で受け止められることも、当時はいっぱいいっぱいで。知識も少なかったですし、視野も狭くて、とにかく心に余裕がなかったような気もします。

 

―離れた後は何をされていたんでしょうか。

 

2年間子育てをしていました。人生のスパンで見ると良かったと思います。0から始める子育ては楽しかったですね。

 

バンドをしていたころは忙しすぎて心に余裕もなかったんですが、子育てをすることで、「誰だって最初は赤ちゃんだったんだな」ってそんなことも冷静に考えることが出来た。僕にとって良い2年間でした。

 

―その後はどのような経緯だったのでしょうか。

 

2003年くらいに1人でプロデュース活動を再開していたのですが、独力でやるのも限界が来ることを知ります。ある日突然体に異変を感じました。そのあと本屋さんにいって立ち読みをしていたらある病気のチェックリストの所で10項目中10項目すべてに丸がついてしまって。その病名が「うつ病」だったんです。きっと気付かないうちに精神的に参っていたんでしょうね。

その後、信頼できるお医者さんを見つけて通うことになるのですが、そのお医者さんに「あなたは今、ひとりで仕事ができる状況ではないので、仕事を続けるなら組織に入るべき」だといわれました。

その後、偶然も重なって再びビーイングで正社員として2006年から本格的に復帰するようになりました。

 

―それはドラマーではなく?

 

ドラマーもやりながら、事務的な作業をこなすような感じでした。

 

―戻られてからは何年働かれたんでしょうか。

 

契約社員になってから数えると6年ですかね。会社を辞めた後は安定した仕事をしようと思い「教える」側に行こうと決めました。最初はどうなるかとおもったのですが、はじめてみると意外と教えることは楽しいという事に気が付きました。

 

―教えることはその時に初めてされたんですか?

 

大学時代に、家庭教師で生活費を稼ぐくらいはしていました。考えてみれば、今までの人生の中で音楽以外に稼いだのはその経験だけだったんです。

 

―教えることに関してやりがいを感じるときはどういう瞬間ですか?

 

生徒さんが成長されていると感じる時ですかね。歌えなかった人が歌えるようになったり、曲を書けなかった人が書けるようになったり。

あとは自分が一番勉強させてもらっているなということも実感しています。僕自身も歌のレコーディング、いわゆる「歌入れ」が上手くなりました。作詞も以前は仕事としてはやっていなかったんですけど、生徒さんが「歌いたい」という曲を教えているうちに、一般の方に支持されている楽曲の作詞の法則性が見えてきて書けるようになってきたり(笑)。

 

―今はプロデュースと教えること両方を楽しまれていると感じますが、これからやってみたいことはありますか?

 

0から誰かを育て上げたことがなくて、今まで何となくそうすることを避けていました。

 

恨まれたらどうしようとか、リスクとかそればかりを気にしていたような気がします。だけど、教室を通して、生徒さんには目標というのが必要な事に気が付きました。プロになるという大きなものだけじゃなく、このパートを上手に歌いたいとか、何かしら続けていく、成長していくための目標が必要なんですよね。

 

生徒さんだけでなく、僕自身も目標を掲げたほうがいいなって思うので、東京ドームでライブができるボーカリストを生徒さんから輩出することが、今の僕の夢です。5万人を魅了できる歌い手をつくること。だから僕は講師ではなく、「コーチ」と名乗っているんです。その人がプロになっても、もしかしたら死ぬまでその人のコーチかもしれません。コーチとしてだけは、ずっとやっていきたいと思っています。どこまで、どれだけお客さんに感動を与えられる人を育てることが出来るかやってみたいと思います。

 

―昔からこのような思いはあったのですか?

 

いままでの過程を通してきて生まれた感情ですね。持っている技術ややる気に差はあっても、どの生徒さんもそれぞれ次の目標が何かを考えざるをえないんです。才能以上に努力というか、日々の習慣が積み重なっているので、相対評価ではなく、絶対評価で考えていこうとようやく言えるようになってきたな、という感じですね。

 

 

―最後に皆さんに一歩を踏み出せるようなメッセージをお願いいたします。

 

コネも何も無いプロの世界にオーディションで飛び込んで、何とか25年間やってきた自分だからこそ言えることかと思いますが、どんなに素質が豊かな人でも一人では何もできないんです。だからこそ、経験を通じて色んなケースを把握していたり、状況や個性など異なるパターンに応じて的確なアドバイスをしてくれる人に出会えるといいですね…。

 

僕がDEENに入ってよかったなと思ったのは、経験の豊富な先輩たちの話を聞くことが出来たことです。パターンを何百も知っている人の話を聞くことが出来たのは当時の自分には本当に大きいことだったと思います。自分がついていきたいと思う人を見つけたら、とにかくまず言われたことをやってみる。そこから生まれる信頼もありますし、そんな人を見つけることが大事だと思いますね。

 

ー素晴らしいお話をありがとうございました。

宇津本さん自身がホストとして特別なレッスンをAND STORYで提供いただく機会をいただきましたので、ソングライティング(作詞・作曲)・ドラム・ボーカルにご興味ある方はぜひご参加してみてください。

 

ソングライティングのストーリー

ドラムのストーリー

ボーカルのストーリー

 

photo by 鮫島 俊介

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