ウェブメディア『灯台もと暮らし』の編集長であり、著書『移住女子』が話題になっている伊佐知美さん。灯台もと暮らしでは、様々な土地に住む人々の生き方や暮らしに寄り添った物語を多数掲載。インタビューを通して温もりを感じるようなメディアを作られている伊佐さんの物語についてお聞きしました。
ーご多忙な中、本日はお話し聞かせていただく機会をいただきありがとうございます。
多忙ではなく、多動なだけなんです... 笑 この一年半ほど固定の住居を持っておらず、Airbnbやホテル、出張先の宿を旅や仕事の都合に合わせて点々としながら暮らしています。一番多くいるのは国内だと新潟と東京でしょうか。海外に滞在することも多いので、日本にいる期間も変動的です。
ーすごいですね。今回カタリストとして取材させていただいたのは、私が『灯台もと暮らし』の愛読者だったからなんですが、今日は編集長としてではなく、伊佐さん自身の物語についてお聞かせください。
それはとても嬉しいです。私については、そんなに立派なことは何もないんですが、私の経験で良ければぜひ!
ーまずは伊佐さんの旅への憧れ、渇望の原点はどこにあるのでしょうか?
私は、父親の仕事の都合で転勤が多い一家で育ちました。小学校は4度ほど転校を。小学校の低学年の頃に中国の上海に移住することになったのですが、私は当時上海がどこかも知らなくて。親に教えてもらったのは日本地図の外側にある場所。よく分からなかったけれど、海を越えたら違う国があって、違う言語・文化の中で暮らす人がいるんだ!と、とにかく外の世界にワクワクしたことを覚えています。私の旅への憧れはそこが原点ですね。
ー当時小学生だった伊佐さんは、どんな子供だったんですか?
どんな子どもだったんだろう... 休み時間はうるさいけれど、授業中は静かな弱・優等生?笑 転校を繰り返したせいか、コミュニケーションは上手な方だったと思います。転校生って目立つから、もちろんいじめにあうこともありましたが、色々な環境を見てきた分、今の人間関係が全てじゃないと考えることもできました。あとは本が好きで、図書館に住みたいと思っていた時期があるくらい。日本語の本が売っているお店は当時街に一軒しかなかったんですが、両親に月に一度そこに連れていってもらえるのが、すごく楽しみで。
ー小学生の頃は、どんな本が好きだったんですか?
漫画の偉人伝...笑 いや、漫画から旅行雑誌まで幅広く好きだったんですが、旅でいうと村上春樹さんの旅行記『遠い太鼓』に一番強い影響を受けていますね。異国を旅しながら小説を書いて生きていくイメージは、その本で培ったんだと思います。
ーなるほど。幼少期は文学少女として過ごされたんでしょうか?
いえいえ、全然違うんです。そんなことを言ったら本物の文学少女に怒られます。笑 本も好きでしたけど、みんなで何かやることも大好きで。中学校ではずっとバレー部に入っていました。強豪チームだったんですが、かなり規律も厳しいバレー部でした。並行して生徒会をやったり。高校時代はずっとダンスに夢中でした。
-ダンスですか?現在の伊佐さんからはあまり想像できないのですが、どんなダンスですか?
いわゆるストリートダンスです。20代前半まで続けていましたが、一時はもう...いわゆる、金髪、編み込みのある、いや~な大学生だったと思います。笑
-それは、かなりギャップがありますね。笑 図書館に住みたかった女の子が金髪になっちゃったんですね。
でも、今の私を直接知っている方はそういう人だって認識をしてくれていると思います。笑 特に隠していないのですが、言う機会がなくて。
ー灯台もと暮らしというメディアとのギャップかもしれませんね。高校卒業後の進路選択はどうだったんですか?
やっぱり海外への憧れが強くて、留学ができる大学に行こうと思っていました。第一志望だった大学が不合格だったので、浪人しようと考えましたが親に反対されて、横浜の大学の国際系の学部に進学しました。
ーそこでようやく海外留学は実現できたんですか?
はい。カナダに留学できたのですが、短期間だったので語学力はやっぱり全然上がらなくて。あと語学ができないから現地の人と上手く交流ができなくて、なんか苦い思い出になったなぁ...。それが心残りだったので、大学を休学してでも1年ぐらい留学しようと決意していたのですが、母の体調が悪くなったりと色々な事情が重なってしまい、とにかく大学を卒業して就職することを決めて。
ーじゃあ、この時点では旅もあまりされていないんですか?
そうですね。初めて海外の一人旅に行ったのも社会人になってからで、24歳の時でした。大学時代は卒業旅行で海外に行ったり、青春18切符で長期の日本一周旅行をしたくらいかなぁ。
ーそれはどういうきっかけで?
北海道・東北で一区切り、四国・九州で一区切り、という風に何度か期間を分けて旅をしていたんですが。一番最初の旅は、大学一年生の時に友達と「京都行きたいね」と話したことがきっかけ。でも学校やアルバイトで忙しくて、なかなか行けない。友達と全然行けないよねって話になって、じゃあって突然アルバイト終わりに終電に乗って京都に向かったんです。途中で電車がトラブルで止まったりして大変だったけど、楽しかった。その時に、「お金と時間と意思さえあれば、どこへでも行けるじゃん」と気が付いたのが大きな一歩だった気がします。
ー面白いですね。今までお話を聞いていると、慎重に選択されている場面もあれば、一方で突然行動されていますよね。
そうですか? でも確かに、自分の気持ちの振れ幅にたまについていけない時があります...笑
ーその後の就職では金融系企業と、それまでの伊佐さんの経歴や考え方からは近くない就職先のように感じるのですが、どのように選択されたんですか?
就活時はいかにも学生らしく、まずは大きな会社に入ろうと考えました。周りもみんな、大手企業や公務員の道を選んでいたから。私も好きなことに突き進むよりも、好きなものが買える会社ーつまり給料がいいところへ行こう!と思って。雑誌の編集者になりたかったから、ありがちに出版社やマスコミを中心に受けたのですが全部ダメで。笑 そんな時たまたま学内の就活フェアで、VISAカードの採用担当者からお話しを聞く機会があったんですね。貨幣は国によって違うけど、クレジットカードは世界共通の通貨になりうると。あとは、当時電子マネーの興隆期だったので、それもおもしろそうだなと。なので金融業界に惹かれたというよりも、三井住友カードという会社に惹かれて採用試験を受けました。
ーその点なんですね、伊佐さんが惹かれたのは。
昔CMで、三井住友カードが「世界共通通貨!」って言ってたのを思い出したりして。笑 だからほかの金融企業は全然受けていませんでした。ただ入社後も、やっぱり出版への夢が消えなくて。3年半後、転職活動をしてようやく雑誌社に入れました。
ーじゃ、そこでの仕事は楽しかったんですね。
職場が紙の匂いがすることだけでも幸せでした。はじめに入った部署が広告部だったんですが、いつかは編集部に異動したいと目論んでいて。ただ時間が経つうちそれは難しいらしいぞと知ったので、では外で書く活動を始めようと、兼業のライター業を始めたのが今のキャリアのはじまりです。
ーそこからが今の潮流になっていく出発点ですね。
はい。フリーライターは一本500円の報酬から始めたんですが、素敵な人たちとの出会いもあり、その延長線上で『灯台もと暮らし』の立ち上げに繋がりました。
ーそんな伊佐さんですが、今後やってみたいことはなんですか?
なんだろう!国内外問わず3ヵ所くらい、暮らす拠点を作ること。今はまずタイ・バンコクで探しています。旅エッセイや写真をまとめた冊子を作ったり、あとは小説も書いてみたいですね。海外取材の仕事も増えてきたので、渡航案件も増やしていきたいなと思っています。
ー今だけを切り取ると多彩で軽やかに生きているように見えますが、お話しを聞かせていただいて、少しずつ、ただ着実に行動され続けているからこそ今の環境を作られているんだと理解できました。今後のご活躍も益々楽しみにしております。本日は貴重なお話しをありがとうございました。