三宅 朝子

CATALYSThaletto編集長

仙台出身。2010年に新卒で株式会社CHINTAIに入社。お部屋探しのメディアを企画運営している中で、街を決めてからでないと検索を始められない主流の検索方法に疑問を感じ、その人のライフスタイルから自分にぴったり合う街をレコメンドするサービス「haletto(ハレット)」を社内新規事業としてリリース。現在も「自分らしくいられる街に出会ってほしい」というビジョンを掲げ、Webマガジンやワークショップを通じて、新しい街との出会いのきっかけを届けるための仕事をしている。2017年には「街を知る」ための宿泊施設、haletto houseを鎌倉市腰越にオープン。

haletto編集長:https://haletto.jp/

インタビュー 体験&おすすめホスト

今回のカタリストは、Webマガジン「まだ知らないTOKYOの新ガイドブック」haletto(ハレット)の生みの親であり、編集長でもある三宅朝子さんです。“試住”という新たな文化の醸成に挑戦されている三宅さんの物語をお伺いいたします。


―haletto、ワクワクしながらいつも拝見させていただいております。今日は、三宅さんのこれまでの物語やこれからの想いを中心にお話しを聞いていきたいと思います。まず、これまで様々な企画や新しい取り組みを手掛けてこられた三宅さんの創造の原点となったのはいつ頃でしょうか?

 

小学校の頃に作った『あんこ新聞』が何かを創り出した始まりかもしれません。

 

―朝子新聞ではなく、あんこ新聞なんですか?

 

家族から、あさこではなく、あっこって呼ばれていたんですが、あっこからあんこになったと思います。詳しくは覚えていないですが(笑)

 

―どんな新聞だったんですか?

 

自宅で起きたニュースをまとめて、手書きでルーズリーフに書いていました。家で飼っていた猫の不倫疑惑や、妹がタンスの角に頭をぶつけて血が出たなんて話を書いていました。家庭が舞台で、読む人たちも家族の新聞です

 

 

―ゴシップ紙ですね。笑 小学生の頃から、今に繋がるような行動をされていたんですね。何か特別なきっかけがあったんでしょうか?

 

私が見聞きした面白い話や驚きを伝えて、みんなが面白いって感じてくれることに喜びを感じていました。直接的に新聞に繋がるわけではないですが両親の影響も大きいと思います。

 

―どんなご両親なんですか?

 

父はテレビ局に勤めていて、新規事業を手掛けるようなチャレンジをする人でしたし、お母さんも好奇心旺盛で、父と同じようにチャレンジする人でした。例えば、母は陶器が好きになったら、突然自宅を開放して陶器を販売してみたり、唐突にゴスペルに挑戦してみたり。けど、飽きっぽいんですけどね。そこも似てると思います(笑)

 

―やってみることを大事にしている素敵な家庭ですね。ご兄弟はいらっしゃるんですか?

 

3姉妹の真ん中です。姉は石橋を叩きすぎて壊しちゃうぐらい慎重な人で、妹は要領の良い末っ子で、真ん中の私は猪突猛進の自由な感じです(笑) 思い立ったらやらないと気が済まない性格ですね。

 

 

―その後も新聞づくりは継続されましたか? 

 

中学校に入って、壁新聞を書いてみたこともありましたが楽しかったですね。中学校では、生徒会長もやったのですが、送辞を読む大役を務めることになったんです。その時にも、決まったフォーマットであまり聞きなじみのない言葉を使うのではなく、自分なりの言葉で全部作ってみたんですね。そうすると聞いてくれていた卒業生や保護者の方からとっても良かったという声をたくさん頂けたんです。自分のちょっとした工夫次第で、こんなに多くの人に感動を与えられるってすごい楽しいなと思ったことを覚えています。

 

―生徒会長と壁新聞作りって、同じ人がやっているイメージがないというか、表に出るコミュニケーション能力の高さと、一旦情報を自分の中で反芻して生み出すような内省という違う側面があると思うんですが、どちらもお持ちだったのでしょうか??

 

私、きっと内省がないですね(笑) 目の前にあった感動とか、面白いことはすぐに伝えたくなっちゃうんです。とても直観的だと思います。

 

―では、三宅さんにとって生徒会長も壁新聞作りも同じ感覚だったんでしょうか?

 

自分が話すときは自分自身がメディアになっていると思っていますし、あんこ新聞もメディアでしたし、形は何であれメディアを通して人に喜んでもらうことが昔から好きです。今も、読んだ人から反響があったときが一番幸せです。

 

―直観力を活かして人に喜んでもらえると嬉しいっていうのは、昔から全く変わらずそのままだったんですか? 例えば直観的すぎて失敗したこととかありますか?

 

つらいことはすぐに忘れちゃうから、覚えていないかも(笑)

 

―それも才能ですね(笑) 高校時代はどうだったんでしょうか?

 

高校時代はバイトに一生懸命でした。レジの仕事が大好きで。

 

―レジですか? なんだか意外な展開に感じるのですが。

 

子どもの頃からピッ、ピッっていうバーコードを読み取る作業が大好きでした。おままごとで良くやっていて、いつか本当にやりたいと思っていたんです。あと、接客もメディアなんですよね。どうやったらお客さんに喜んでもらえるかなとか、この商品のポップを書いたらもっと良くなるんじゃないかなとか考えて実行することが大好きでした。その時の気持ちって、売上を上げるっていうのが目標ではないんですね。自分自身の創意工夫で喜んでもらえるっていうのがやっぱり嬉しいです。

 

―お話しを聞くと、一見全く違う行動をしているように見えても、三宅さんの中に一本しっかりした芯があることを感じます。そのまま今の仕事に直結する物語を想像できるのですが、その後も順調に歩まれてきたのでしょうか?

 

私の中での一番の挫折がその後にあるんですが、第一志望の大学に行けずに一年浪人したんですね。直観的な反面、集中力が続かなかったり、長く大きな目標を見据えた向上心みたいなものがなかったので、辛かったですね。

 

―そんな一面もあるんですね。メディアにおける“編集”って計画性みたいな部分もあると思うんですがそこは得意ではなかったということですか?

 

AND STORYのインタビューってえぐられますね(笑) あの時から自分そうなんだって、なんだか気付かされます。私、RPGが出来ないんです。ドラクエとか1つ目の街から出れないんですね。ストーリーを追うのが苦手です。だから、現代文も出来なくって。

 

―えぐってすいません(笑) けれど、とても意外です。昔から新聞を作られている三宅さんが、現代文が苦手なんて。

 

日本語なのに全然頭に入って来ないんです(笑) 長い文脈の中で複雑な関係性を読み解くというよりも、今日素敵な1本の記事を書くというぐらいのフォーカスの方がテンション上がります。もちろん、この1本を何のために書くのかっていう背景や目的は大事なんですけど。

 

―ちなみに大学では何を学びたかったんですか?

 

今も興味あるんですが、当時から文化を学びたかったんです。日本には着物とか、おにぎりとか独特の文化があるんだけど、海外にはどんなものがあるんだろうって興味がすごくあって。

 

―それが学べる大学に入れたんですか?

 

はい。秋田大学で、文化を学ぶ学部に入れたんですが、そこでも地元の魅力を伝える雑誌を発行し今に繋がる活動もやっていました。

 

―三宅さんらしいお話しが出てきましたね。故郷を離れ、新しい土地でどんな雑誌を作っていたんですか?

 

秋田大学って県内から進学している学生が多かったんですが、私にとっては生まれて初めて県外での生活ということもあり、街の全てが新鮮で、秋田の風土・文化も素晴らしいものがいっぱいあるなと感じたので、秋田の魅力を伝える雑誌を作っていました。

 

 

―すごい行動力ですね。新しい環境というのはいつもワクワクするんですか?

 

それが、秋田に行ったときが人生初の1人暮らしだったので、とっても大変でした。寂しすぎて。毎日お母さんに電話して、泣いていました。

 

―そんな印象全くないですね。

 

私、春が苦手なんです。新しい環境が苦手で、自分のテリトリーができるまでが本当につらくて。だから、小学校のクラス替えが大嫌いでした。

 

―好奇心旺盛な人ってみんな春が好きだと思っていて、むしろ三宅さんは特に春が大好きっていう方だと思ったんですが、何か理由はあるんですか?

 

春の、みんなが様子を伺っている感じがとっても苦手なんです。そんな状況で気軽にヘイヘイって来る人にもちょっと引いちゃったりして。

 

―それ、私にとっては独特な感性で、とても面白い感覚だと思いました。けれど、よく考えると、いきなり環境を全て変えるのではなく、街を知ってみてから引越しを考えてみてはっていう、三宅さんがおっしゃっている“試住”に繋がる部分もあるなと感じました。就職活動はどうだったんでしょうか?

 

秋田に行って、一番つらい時期を乗り越え、今や故郷より秋田に帰りたいと思えるほどの経験ができたので、就職する時は東京に行ってみようと思いました。出版やテレビ局などのメディア企業ばかり受けていましたね。その時に出版社というくくりで株式会社CHINTAIに出会ったんですね。

 

―広くあるメディアの中でもCHINTAIさんを選ばれた理由は何だったんですか?

 

新しいことにチャレンジしている先輩にお会いできたんですが、その人に惹かれて入ったのが大きかったです。その時は編集がやりたいって言っていたんですが、営業も、メディア作りも全て編集力が必要なんだよって教えてもらえたことがすごく有難かったです。

 

―会社に入られてからはどんな仕事をされてきたんですか?

 

営業を少し経験したのちにメディア事業部に異動になり、そこから新しい企画を作ったり、ゲームをプロデュースしてきたりしました。その後halettoリリースに至るのですが、一貫しているのは、日のあたらないものに、みんながまだその価値を感じていないものに、光をあてたいっていうのは昔からありました。秋田でフリーペーパーを作っていたのも、北海道出身の男の子と一緒に、県外出身者だからこそ感じる秋田の街の魅力を伝えようとしていたっていうのも、そこにまだ誰も気付いていない魅力があると感じたからでした。

 

 

―その想いは今に繋がっているんですね。

 

特定の人気のある街の情報は世の中にいっぱいあるんですけど、その街に住むことで、みんなが満足できる訳ではないと思うんです。みんなまだ気付いていないかもしれないけれど、本当は魅力ある街やそこに暮らす人の情報を届けることで、新たに住む場所を探す人にとって何かが変わるかもしれないなと思うんです。

 

―まさに知らなかった素敵な街の暮らしが、halettoから伝わってきます。今後三宅さんが挑戦していきたいこともぜひお聞かせください。

 

今日みんなで飲んで楽しかったね、けど家は別々だからそこから各々の家に帰るんじゃなくて、その楽しかった街で泊っていくっていう体験を気軽に出来るようにしたいですね。仕事疲れたから鎌倉に行って、泊ってみようかなって。当たり前のように住んでいる家以外にも気軽に泊まれる環境を作りたいと思っています。

衣食はたくさん経験することができて、その分失敗しているから自分で何が好きかってことも分かってくるんですが、住って経験が少なくって、だから失敗しないようにと慎重に選ぶんだけど、けど経験値がないからこそやっぱり失敗というか、合わない街に住んでしまうことがあると思っています。

私自身、今そんな風に色んな街で泊ってみているんですが、その街の朝と夜を知らないと本当の意味で街を知ったことにはならないと思うんですね。

鎌倉の腰越っていう街もhaletto house(ハレットハウス。木造一軒家をリノベーションした宿泊施設。を作ったからこそ知った街なんですけど、海がきれいで、街も人も良くて引っ越してもいいかなと思える街に出会えたと思っています。

 

 

―三宅さんにとって “住む”ことってとても大事なんですね。

 

住むというよりは、“暮らす”を大事にしたいと思っています。

 

―求める暮らしの原点は何でしょうか?

 

私の暮らしの原点は、生まれ育った家にあります。お母さんが、お味噌など手作りしていたこと、そして周りの環境も穏やかでした。けど、それだけじゃなくって、今は海に惹かれているのは腰越に出会えたことがひとつと、オーストラリアに少しホームステイしてたのですが、そこのご夫婦が毎日海を見ながら1日あったことを共有することを続けられていて、それに憧れたこともあります。自分自身の経験の中で、求める暮らしって少しづつ変化しているかもしれませんね。

 

―春が苦手な三宅さんは、春の浮かれた気分に惑わされることなく、少し落ち着いた後だからこそ見えてくる本当の価値や魅力が伝わってくるような暮らしの情報をこれからも伝えられ、そして暮らしの体験そのものを創り出されていくんですね。個人的にもこれからを楽しみに、そして心より応援しております。今回は素敵な物語と想いをお聞かせいただきありがとうございました。